蔦重コースのご案内

江戸の中頃 吉原に 生まれ育った 柯理は 長じて名を変え 重三郎 吉原大門 五十間道 開いた本屋が『耕書堂』 歌麿 写楽 北斎を 見出す手腕は 当代随一 山東京伝 大田南畝に曲亭馬琴らと浮世絵 狂歌のコラボを仕掛け 江戸出版界をリードするヒットメーカー 名プロデューサーでもあったのだ
『蔦屋重三郎』  あなたは一体 何者ですか

(写真をクリックすると拡大されます)

新吉原仲之町
寛延3年(1750)、江戸の華・吉原で生まれた。本名は柯理(からまる)
7歳の時、商家の蔦屋に養子入りし「蔦屋重三郎」が誕生する。
文化水準の高い吉原で揉まれ、教養を培い、様々なものを学んだ。
五十間道・耕書堂跡
重三郎22歳、五十間道に並ぶ義兄の店先で本の小売りを始めた。
店の名は「耕書堂」、ここで初めて『一目千本』を出版、やがて『吉原
細見』の出版から独占販売へとつなげていく。
吉原公園・大文字楼跡
吉原三大妓楼といわれた「大文字楼」の跡地。
重三郎は、文化人たちの交流の場として度々利用していた。
天明の「狂歌ブーム」には、狂歌師を集めて狂歌を詠むお膳立てをした。
山谷堀公園
江戸の初期、荒川の氾濫を防ぐために造られた水路。
吉原通いの粋で優雅な水路として賑わったが、現在は埋め立てられ公園
になっている。
八百善跡
明暦の大火後、八百屋から仕出し屋、そして人気の料理屋となった。
山谷堀から吉原へ向かう途中にあり、多くの文人・墨客が利用した。
正法寺(日蓮宗)
重三郎の菩提寺。
火災・震災・空襲と幾度の受難により元の墓石はないが、代々の住職に
より供養が続けられている。
顕彰碑:重三郎には「石川雅望」、母には「大田南畝」の撰文が刻まれて
いる。
遍照院・狸長屋跡
葛飾北斎終焉の地・狸長屋があった場所。
北斎は耕書堂の黄表紙の挿絵などを描いていたが、当時は歌麿と写楽が
台頭してきた時代、重三郎は次代を代表する絵師と確信していた。
重三郎没後、二代目重三郎のもとでは蔦屋の絵師のエース格となっている。
山東京伝机塚碑
多数の洒落本・滑稽本を著した江戸時代の代表的な戯作者。
重三郎とは馬が合い、耕書堂のヒットメーカーとなり黄表紙・洒落本を
多数出版するが、寛政の改革で50日の手鎖の刑を受けた。